昨日の朝日新聞に
谷川俊太郎のインタビューが載っていました。

つねづね「そもそも詩って何?」
と思っていたので
とても興味深く読みました。

最近社会のなかで詩の影が薄くなった気がするのですが…
という問いに
「詩が希薄になって瀰漫している感じはありますね。
 詩はコミックスの中だったり、テレビドラマだったり
 コスプレだったり、そういう、
 詩と呼ぶべきかどうか分からないもののなかに
 非常に薄い状態で広がっていて、
 読者はそういうものに触れてることで
 詩的な欲求を満足させている」

と答えておられました。

そして

「詩情は言葉のなかだけにあるものではない」

「詩は言葉を使っているのに
 言葉を超えた混沌にかかわる」

「『スラムダンク』(井上雄彦のマンガ)
にも詩情はあるのではないでしょうか」

とおっしゃってました。

うーん、すごい。
なんか詩のことが少しだけ分かったような
気持ちになりますね…

さらにいえば
わたし、「名作だと思うマンガベスト3」
の一つが『スラムダンク』なのです。

詩が言葉の中だけになくて
言葉を超えたところに関わるとしたら
スラムダンクのなかに、詩情はあって
そんなところにも自分は惹かれているのかもなあ
と思いました。

谷川先生にそんなこと語らせる
井上先生もスゴイですねえ…。
1億冊売れるわけだ。

同時に語っておられたことも、勉強になりました。

「詩は自己表現である」という思い込みがあるが
それだけが詩なのでは無い、と。
古池や蛙飛び込む水の音
という芭蕉の句は
メッセージも無いし意味すら無いに等しいけれど
何かを伝えている、とも。

なんだか腑に落ちたというか。
わたしはずっと「自己表現」というくくりで
詩を見ようとしていたのかも知れません。

「作者は何を伝えたいか」
なんて考えなくていいんだなあ。

詩の手触り、音、イメージから
わたしが何かを喚起されればいいのかもなあ。

中原中也のサーカスという詩に出て来る
「ゆあーん、ゆよーん ゆやゆよん」
にも意味は無いけれど
言葉では表せない何かは喚起されますもんね…激しく。

昔読んだ中島らもの『今夜すべてのバーで』
という小説のなかで
主人公が親友を評して
「存在自体が詩そのもののような男だった」
と語っていた記憶があります。
(正確な表記じゃ無いかもですが
 これっぽいことが書かれてあったのです)

「立ち居振る舞い、言動のすべてが詩のような男」
って、なんてカッコいいんだろ~って思ったのを
覚えています。

ああ、わたしも
次に生まれてくるなら、「詩のような女」になりたい。

ま、ゼッタイ無理でしょうけれど。
わたしの場合
「存在自体がお笑い」
のほうが近いですしね(笑)